「へぇ、やっぱりガタが来たか」
「それはともかく、直せるじゃろうな」
「私を誰だと思っている」

 話し声。二つの声が聞こえる。
 一つは聞き覚えのある声。心が落ち着く、老熟された声。
 もう一つは聞き覚えのない声。女の人の声だ。何処か冷徹だけれど、温かみのある声。

 あれ、そう言えば一体何が起こったのだろう? えぇと、何だろうな、苦しくないのにとても苦しい。均等なリズムで呼吸をしている、肺に新鮮な空気が取り入れられる。なのに、苦しい。体の内側が圧迫されているような不快感。一体何が起こったのだろう? あぁ、苦しいなくそぅ。
 考えれば考えるほど、苦しい。苦しくて苦しくて、思わず呻き声を洩らした。自分の耳に聞こえた自分の声は、酷く違和感があった。

「姫様はお目覚めのようだな」

 女の人の声。目を、開ける事が出来ない。苦しい。酷く気分が悪い、動いてなんていないのに、頭がぐらぐらと揺れる。まるで脳みそが柔らかいゼリーになったような錯覚。

「志保、悪いが少し話を聞いてくれんか。何分予測出来んかった事態でな。軽く説明する」

 厳しい声。ゼル爺でもこんな厳しい声を出すのか。目を、開ける事が出来ない。怖い。怖い、怖い。ここには俺しかいない。目を開ける事が出来ない、周りは暗闇に囲まれている。体の感覚が、無い。

「ぜ、ゼル、爺」
「ほぅ、その状態で喋れるのか。体の性能は随分と良いようだね」

 何とか言葉を喉から搾り出せた。感心したような声が聞こえたが、今はそれに気を配る事が出来ない。
 暗い暗い、世界の中。ワタシは叫び声を上げる。ここから出せここから出せここから出せここから出せ。馬鹿みたいに何回も、何回も叫び声を上げ続ける。
 俺は叫び声を上げようと喉に力を入れるも、ぱくぱくと口が動くだけ。ワタシは叫び声を上げ続ける。喉が枯れる、枯れてしまう。
 口からは微かな呻き声が洩れる。その呻き声は、俺の呻き声じゃない。か細い悲鳴のような呻き声。違う、これは俺じゃない。

「志保、掻い摘んで話すからよく聞いてくれ。儂は聖杯ですら抑えきれない力に興味を持って、平行世界へその精神を受け止められる器を探したんじゃ。そして、見つけた」

 ゼル爺の声に少しばかりの焦りが含まれている。
 怖い、怖い、怖い。また、これだ。肌の中で何かが這いずり回る感覚。血液が体を蹂躙する。頭の中から叫びが聞こえる。

「それは衛宮士郎と同じ所で生まれ育ったモノ。聖杯戦争も何も無い、平和な世界で育った正義の味方。ただ、性別は違かったがな。儂が事情を説明すると人助けのためならと協力してくれた。そして、この人形師にコピーを造らせたのじゃよ。オリジナルの協力の元なのだから、コピーもオリジナルと遜色ない出来となった」

 狭い狭い狭い狭い狭い狭い狭い狭い。頭の中でワタシが叫ぶ。

「それはオリジナルの強すぎる意思をもコピーしてしまった。しかし、所詮コピーはコピー。オリジナルの劣化版」

 あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。うるさい、うるさい。

「コピーではその意思を抑えきれない。従って、衛宮士郎は衛宮志保に飲み込まれようとしている」




















‡‡‡‡‡


















 ここには、何も無い。
 本当に、何も何も無い。真っ白な世界。
 今、俺は真っ白な地面に立っている。タイル張りでも何でもない、世界中何処を探しても有り得ない、真っ白な世界。
 見渡す限りの、白、白、白。空と地の境が分からない。真っ白な、世界。

「君が、衛宮士郎?」

 不意に、背後から声がした。ぶっきらぼうと言っても良いようなそれは、決して聞き覚えのない声ではない。むしろ、親近感を覚える声。
 ゆっくりと、後ろを振り向く。腰まで伸びた、赤い髪。見知った高校の制服を身に纏ったその姿、敵対心は感じられなかった。むしろ、何処か初対面という事を感じさせないその顔には微笑が浮かべられていた。

「君は、衛宮シホか」
「うん、あたり」
「ここは、何処?」
「ここ? ここは私の世界。固有結界みたいなもの」

 衛宮士郎、衛宮志保。お互いに向かい合って自然と会話を交わす。何だか、喋りやすい人だな。あ、そうか、自分自身だもんな。
 でも、この世界は俺の知っている固有結界とは違う。俺が知っているのは、無数の剣が突き立つあの丘。
 固有結界は、術者の心理を表すと言うけれど、これでは、あまりにも……。

「寂しく、ないのか?」

 衛宮志保がぐにゃりと笑う。その笑みは何処か歪んでいて、あの弓兵を思い出させた。
 自分自身に対する嘲笑、何か諦めにも似た感情。

「寂しいか。寂しいかもしれない。だけど、私はやる事がある」
「正義の味方の、仕事か」
「あたり。子供の頃は良かったんだけどね。子供の頃は何でも出来た、でも、自分の力が理解できるにつれて、出来ない事も増えてきた」

 力、衛宮シホの力は強大なモノであった。体力では俺に劣っていたけれど、魔力量などは半端じゃない。

「だからね、疲れたの。何をどう頑張っても、目の前で無くなっていくモノがある。それを理解した時、私は悩んだ。その悩みが私自身」

 違う、違う、違う。何をどう頑張るも何も、どうにもならないのならどうにかすればいいんだ。
 諦めてはいけない。諦めてはいけないと分かっているのに、指の隙間から零れ、消えていくモノ。衛宮シホは、きっとそれを見てきたのだろう。

「私は衛宮シホのデッドコピー。衛宮シホの不安要素」
「だから?」
「え?」
「だから、何だよ」

 俺と同じ姿をしたそれは、俺とは違う。
 また、衛宮シホの姿をしたそれは、衛宮シホとも違う。















―――――だから、姿形なんて関係なく、俺は目の前の衛宮シホが許せなかった。
















 この世界が目の前の衛宮シホの心理状態だと言うなら、全て塗りつぶしてやろう。上書きしてやろう。

 正義の味方として、俺は衛宮士郎として、目の前の衛宮シホを叱りつけるのだ。

「I am the bone of my sword」











‡‡‡‡‡












 手術台のようなものの上にうつ伏せに寝かされている衛宮志保と、その背中に手をのせている人形師。
 人形師が小さな呻き声を上げる。その額には薄らと汗が浮かび、さしもの人形師の顔に焦りの色が見える。

「どうした人形師」

 その背後には一人の老人。このご時勢に何の趣味か、灰色を元に龍が泳ぐ柄の着物を着込んでいる。その表情に変化は無いが、明らかにその声は驚きを含んでいた。それ程までにこの人形師を信用していたのだろう。

「ったく、中で暴れてる。こんな滅茶苦茶な例は初めてだからな、どうも勝手が違う」

 つまりは上手くいっていないという事。
 衛宮士郎ほど可笑しな魔術回路を見るのも初めて。その魔術回路に適任する体の主を元に人形を作り、アインツベルンの聖杯ですら抑え切れなかった衛宮士郎を人形へと移す。これで不確定な事が起きないなど、有り得ない事であったかもしれない。
 制服姿のまま、横たわる衛宮志保の背中にのせた手が震える。

「終わった」

 ふぅ、と一つ息を吐き、その手を背中から離す。その様子に安心したのか、宝石爺は顔を緩ませる。

「ご苦労、これで大丈夫と思っていいんじゃな?」
「あぁ、恐らく大丈夫だと思う」
「恐らくとは?」
「耳聡いな。途中変な衝撃があってな、その拍子に作用が起こっているかもしれん」

 まぁ大丈夫だろうがな。と事も無げに言ってのける人形師は疲労したのか、廃墟のようなこの灰色の部屋の隅に置いてあるソファーに座った。

 これで自分の仕事は終わりだと言うように、その口には煙草が銜えられていた。













‡‡‡‡‡‡












「志保っ! 何処行ってたのよ、何の断りもなく!」
「先輩! 早退届は出てたそうですけど、大丈夫ですか」

 遠坂と、桜が玄関で出迎えてくれる。二人の声は厳しいもので、俺も心配されてるんだなぁと幸せに思ったりする。

「遠坂、桜、ありがとう。俺はもう大丈夫」

 頭の中で声がする。くすくすくすとの笑い声、一人称は私でしょう、と意地悪い笑い声。
 くそぅ、体は女の子なんだからせめて一人称くらい元のままで良いじゃないか、と主張するも、何の返事もなかった。

「で、説明するから早く中に入らないかな?」

 恐ろしい笑顔で俺を迎える二人に、俺はありったけの勇気を振り絞ってそう提案した。










‡‡‡‡‡











「なるほど、つまりは今士郎の依り代である衛宮志保の体には、衛宮士郎だけではなく、元の体の持ち主の衛宮シホも宿ってしまっていると」
「う、何だかこんがらがるな。多分そういう事だと思う」

 冷静にライダーが分析する。だけど、私の頭はサッパリと理解しない。何より志保がそんな重大な事態なのにのほほんとお茶を啜ってるのが理解できない。
 要は、志保の体に衛宮士郎の精神の他、元の体の持ち主の衛宮シホの精神の一部が混在しているのだと言う。体や思考の主導権はほぼ士郎が握っていて、たまに茶々を入れてくる程度だと言うけれど、心配な事に変わりは無い。なにしろ、今回志保が体調を壊したのはその衛宮シホに乗っ取られる所だったと言うのだから。
 それに、志保とかシホとか、頭がこんがらがる。

「先輩、不安じゃないんですか。何でそんなに平気な顔で笑うんです」

 隣に座った桜が珍しく真面目な顔でそう言う。うん、桜は真面目が一番だよ、お姉ちゃんとしてはそれが好ましい。

「大丈夫だから。ちゃんとシホとは話し合ったし、逆に私の体だから粗末にしてもらっては困るってサポートしてくれるみたいだ」
「じゃぁ大丈夫ですね」
「そうよ志保、桜の言う通りって、桜?」

 ころりと態度を変えて穏やかな笑顔を浮かべる桜はどういう考えがあるのか、あっさりと納得してしまった。
 えっ、ちょっ、この中で納得していないのって私だけみたいじゃない。なんだか私に順応性が無いと言われてるようで何か嫌だ。

「私は、先輩を信じてますから」
「あぁ、ありがとう。桜」

 志保が嬉しそうに桜へ笑いかける。その笑顔はまた一段と可愛い。そして、一瞬桜の勝ち誇ったような視線が私へと向いた。
 さ、桜っ、これが狙いかっ! あぁもうっ!

「志保」
「どうした、遠坂」
「私も、信じてるから」

 先程までの感情を抑え、一途にそう宣言する。ふふふ、どうよ桜。

「遠坂」

 でも、何だか志保の顔が疑ってるように見えてるのは気のせいでしょうか?








「悪いものでも食ったか?」








 ■■■■■■■■ー!!!














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「しかしゼルレッチともあろう大魔法使い様が珍しいとは言え一人の人間に気をかけるなど、どういう訳だ?」
「ふむ、普段なら答えん所だがお前には助けてもらったからのう。志保は、可愛いんじゃ」
「は?」
「儂も老いたのかあの年頃の孫が欲しくてなぁ。何より志保には人を惹き付けるモノがあるて。良くも悪くもじゃがな」
「あぁ、なるほど。近くに似たような奴がいるからよく分かるよ」










 人形師はどこか疲れた様子で溜息を吐いた。